📖 光を求めつつ – 第3話 前編

三.昭和三七年四月八日 初めての授業 前編

 春の陽光が眩しく降り注ぐ朝、私はシャツの胸元を何度も直しながら、固くなった足取りで学校へと向かっていた。
 今日から、小学三年生のクラスを担当することになった。それは、これまで触れたことのない未知の世界へと踏み込む第一歩でもあった。
 盲教育についての知識を深め、経験を重ねていくことが求められる新たな環境。しかし、私の心には期待よりも不安の方が大きく広がっていた。
「生徒たちに、どんな未来を見せてあげられるのだろうか……」。
 目の見えない生徒たちとどう接すればいいのか、その答えはまだ見つからない。不安と戸惑いが心を覆い尽くし、胸の中に静かに渦を巻いていた。
 私が受け持つクラスは七名。男の子が四名、女の子が三名。視覚が完全に失われた生徒が五名、わずかに視力が残る生徒が二名。早朝の職員会議で耳にした「全盲」「半盲」という言葉に、私は何とも言えない違和感を覚えた。見えないことだけで人を分類するような響きがあるからかもしれない。
 目の前に広がる現実を前にして、私は自分がどう授業を進めていけばいいのか、まったく見当がつかなかった。ただ、漠然とした不安が胸を覆い尽くす一方で、その奥底には、何か新しいものが始まろうとする予感が、かすかに息づいていた。
 点字の仕組みは頭では理解できても、実際に指で読むのは難しかった。他の先生方も「触って読めるようになるには、相当な訓練がいる」と言っていた。
 職員室の入り口近くには釣り鐘があり、用務員の澄子さんが釣り鐘を鳴らして授業の始まりと終わりを知らせてくれる。この用務員を生徒たちは「すみこねえさん」と呼んでいる。
 私が受け持つ三年一組は、一学年一クラスしかないのになぜか三年一組という。
 教室は普通の学校の半分くらいの広さで、前にはどこの学校にもある黒板、そして教卓が置かれており、教室の入り口には水道が設置されている。生徒たちはそこで手を洗ったり水を飲んだりする。
 なぜか教室の後ろの方には畳二枚分くらいの箱庭のような砂場があり、壁には鉄棒が取り付けられている。
 教室の中に砂場と鉄棒があるのにはびっくりしたが、運動場がないための工夫なのかもしれない。

 授業の始まりを告げる澄子さんの鐘が、静かな校舎に清らかな音を響かせた。
 先生方がそれぞれの教室へと向かう中、私は澄子さんのそばを通り過ぎながら、小さな声で「澄子さん、おはようございます」と挨拶をした。
 澄子さんは、そっと控えめに会釈を返してくれた。淡い色のブラウスに紺のジャンパースカートを重ねた装いは、清楚でありながらどこか親しみやすく、彼女の軽やかな足取りによく似合っている。足元には、白さがまぶしい月星の運動靴がきらりと光っていた。
 私は三年一組の教室へ向かって、静かに足を進めた。三年生になったばかりの生徒たちが待つ場所へ、胸の高鳴りを感じながら向かっていく。
 教室へと続く廊下はしんと静まり返り、足音だけがかすかに響いている。その静けさに包まれながら、私は教室の前で立ち止まり、一度、大きく深呼吸をしてから、そっと三年一組の教室の扉に手をかけた。
 扉を開けると、子どもたちの明るい声がぱっと耳に飛び込んできた。何かを話しているらしく、教室には笑い声が満ちていた。
 できるだけ明るい声で、「おはようございます」と挨拶した。けれど、生徒たちの笑い声にかき消されたのか、誰ひとりこちらを振り向いてはくれない。教室のざわめきの中、まるでその場に存在していないかのような、心細さに包まれた。
 もう一度、今度は少しだけ大きな声で、「おはようございます」と呼びかける。すると、入り口に一番近い席の女の子が、はっとしたように顔を上げ、小さな声で「おはようございます」と返してくれた。その瞳は、ほんの少しだけ光を捉えているように見えた。
 けれど、他の生徒たちは、まだ誰一人としてこちらに気付いていない。彼らにとって、私の声は、まだ届かない遠くの音なのかもしれない。
 私は、少しだけ戸惑いながらも教卓に立ち、後ろの黒板を二度、とんとんと叩いた。
 すると、さっきまでの喧騒が嘘のように、生徒たちは一斉にこちらを向き、声を揃えて「おはようございます」と言った。そして、その直後、生徒たちは顔を見合わせ、くすくすと笑い始めた。その表情は悪戯が成功した子どものように、どこか得意げだ。
 どうやら初日の挨拶で、私は生徒たちにからかわれてしまったらしい。
 生徒たちの笑い声がなかなか止まらないので、私もつられて笑ってしまった。そして、その瞬間私の心から緊張という名の重い鎧が、ゆっくりと剥がれ落ちていった。
 生徒たちの屈託のない笑顔に、心がほどけていく。

「みなさん、おはようございます」。
 私は、自然な笑顔で子どもたちに語りかけた。
「今日から、三年一組の担任になった石川朝子です。これから一緒に楽しい時間をたくさん過ごしていきましょうね。石川先生って呼んでください。気軽に話しかけてくれると嬉しいです」。
「それでは、まず出席を取ります。一人ずつ名前を呼びますので、返事をしてくださいね。どんな声でもいいですよ、大きな声でも、小さな声でも、元気に答えてくれたら大丈夫です」。
 私は、名簿を開き、生徒たちの名前を一人ずつ呼び始めた。生徒たちの名前を呼ぶ声は、まだ少しだけ震えていたが、その声には、これから始まる日々への期待と、生徒たちへの深い愛情が込められていた。
「上地和彦くん」。
「はい」。
 上地くんの声は低めで落ち着いており、どこか大人びた印象を与えるものだった。
 私はその声に少し驚きながらも、彼の落ち着いた態度に感心した。上地くんの存在が、クラス全体に不思議な安定感を与えているのかもしれない。
「みなさん、返事をするときは右手を挙げて、はっきりと「はい」と答えてくださいね」。
「では、もう一度呼びますよ。上地和彦くん!」。
 私は少し明るい声で呼びかけた。
 すると今度は、上地くんが元気よく手を挙げて、大きな声で「はい!」と返事をしてくれた。
「皆さんも、右手を挙げて「はい」と元気に返事をしてくださいね!」。
「内間靖くん」。
「はい!」。
 内間くんの声は教室中に響き渡るほど元気いっぱいで、まるで周囲にエネルギーを与えるような力強さがあり、その明るい返事に、私は思わず笑顔になった。
 彼の生き生きとした声には、授業への意欲やこれから始まる新しい日々への期待感がにじみ出ていた。
「金城恵子さん」。
「はい」。
 教室の中で控えめに響いた小さな声。それは、先ほど一人だけ私に挨拶をしてくれた女の子のものだった。彼女の返事には慎ましさがありながらも、どこかしっかりとした意志が感じられる。
 私は声の主にそっと目を向けた。恵子さんの頬はうっすらと赤らみ、小さな手が机の上でそわそわと動いている。その慎ましくも初々しい仕草に、私の胸にはふんわりとした温かさが広がっていった。
「知念敏夫くん」。
「はい!」。
 知念くんは、両手を大きく挙げ、まるで誰かのものまねをしているかのようなユーモラスな仕草で、大きな声で返事をした。その元気いっぱいの声は教室中に響き渡り、生徒たちの笑いを誘った。もしかすると、知念くんはクラス一のお調子者なのかもしれない。
 その陽気な振る舞いは、教室の空気を一気に明るくしてくれた。彼の明るさと無邪気さは、まるで教室のムードメーカーそのもののようだった。私の胸には、そんな知念くんの存在が、このクラスの日々を温かいものにしてくれる予感が広がっていった。
「登川ゆかりさん」。
「はい……」。
 ゆかりさんの返事は、控えめで、どこか不安そうに聞こえた。赤みがかった髪と、可愛らしく整った西洋風の顔立ち……その姿には、どこか異国の雰囲気が漂っている。おそらく、アメリカにルーツをもつ家族がいるのかもしれない。
 ゆかりさんの出身地であるコザ市は、沖縄に駐留していたアメリカ兵と沖縄の女性との間に生まれた、いわゆる混血児が多い地域だという話を耳にしたことがある。
 彼らの中には、アメリカ兵と結婚し幸せな家庭を築いた人もいれば、父親となるべきアメリカ兵が母親と子どもを沖縄に残して帰国してしまうという悲しい例も少なくない。
「ゆかりさんはどんな境遇なのだろう……」。
 そんな想像が頭をよぎると、私の胸には締め付けられるような感覚が広がっていった。
「又吉順子さん」。
「はい!」。
 元気いっぱいの声が教室に響き渡った。その返事は明るく、力強く、私はその声に思わず微笑みを浮かべた。順子さんの返事は、まるで部屋全体に新鮮な空気を運んできたかのようだった。生徒たちもその声に引き込まれるように反応してくれて、教室の空気が少しだけ軽やかになった。
「屋比久守くん」。
「はい!」。
 明るく、はきはきとした声が教室中に響きわたった。その声には、ほんの少し照れくささも感じられたが、それ以上に、しっかりとした芯のある自信がにじんでいた。
 屋比久くんの指先が、無意識のうちに机の上を右へ左へと滑っていく。まるでオルガンの鍵盤をなぞるように……軽やかに、楽しげに。その仕草に私はふと目を留め、「もしかして、この子、ピアノが弾けるのかしら」と思った。
 生徒たちは、照れくさそうに、でもしっかりと「はい」と返事をしてくれた。その声を聞きながら、私は、この子たちと一緒に、どんな一年を過ごせるのだろうかと、胸を高鳴らせていた。
「みなさん、本当にありがとう」。
 私は、教室を見渡しながら、心の底からの感謝を言葉にした。
 教室には、温かな空気が満ちていた。これから始まる一年が、生徒たちにとっても、そして私にとっても、かけがえのない特別な時間になると確信していた。

「先生は、宜野座村の出身です。ここからだとバスを乗り換えて二時間半くらいかかります。とても海がきれいで、パイナップルの栽培が盛んな小さな村です」。
「大学は、女子寮に入りそこから大学に通いました」。
 少し照れながら、私は続けた。
「最初はね、都会の暮らしになかなか慣れなくて、何度も大学をやめて宜野座村に帰ろうかと思ったことがあったの。でも、親しくしてくれる友達がいてくれて……そのおかげで、なんとか頑張って卒業することができました」。
 その言葉に、生徒たちは真剣な眼差しで私を見つめていた。私の話は、まるで遠い昔の物語のように、生徒たちの心に静かに染み込んでいくようだった。
「卒業して、先生になって、こうしてみんなとお話しできることを、本当に嬉しく思っています。先生も、みんなと一緒に楽しく過ごして、たくさん学びたいと思っています」。
 私は教室をゆっくり見渡しながら、にこやかに微笑んだ。生徒たちのまっすぐな視線が、胸にじんわりと温かく届いてくるのを感じていた。
「先生は、読書と散歩が大好きです。晴れた日にのんびり歩きながら、自然の中で過ごす時間がとても好きです。風にそよぐ木の葉や鳥の声を聞いていると、心がすうっと軽くなる気がします。それから、本を読んでいると、いろんな世界を旅しているような気持ちになって、新しいことを知るのがとても楽しみです」。
「みんなはどうですか?どんなときに楽しいと感じますか?好きなことや、大切にしていることがあったら、ぜひ教えてください」。
「一人ずつ教えてくれますか?」。
「では、上地くんから。自分が好きなものや楽しいと思うことを教えてください?」。
 私が微笑みながらそう呼びかけると、上地くんは少し考え込むように目線を下げ、小さな声で言葉を探し始めた。
「うん、あのー…」。

 上地くんがようやく話し始めようとしたその瞬間、知念くんが勢いよく手を挙げ、元気な声で話し出した。
「石川先生!ウンチューの家は有名なチンスコー屋だよ!」。
 突然の発言に、私は思わず戸惑ってしまった。「ウンチュー?」その言葉は初めて耳にするあだ名だった。知念くんの言葉には悪意はないと感じたものの、上地くんの話の途中で飛び出したその声に、私はどう対応するべきか一瞬考え込んでしまった。
「知念くん、ちょっと待ってね」。
 私は優しく語りかけるように知念くんの方を向き、落ち着いた声で続けた。
「先生は今、上地くんにお話をしてもらおうとしているところなの。だからね、知念くんの番も後で必ず来るから、少しだけ待っていてくれるかな」。
 知念くんは口を閉じて頷き、椅子に座り直した。その姿に私は柔らかく微笑み、再び上地くんに目を向けた。

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